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晴れた日が続いている。空は青く、日差しは惜しげもなく地上に注いでいる。

ミラノの旧市街、入り組んだ路地裏の奥にあるちいさなエノテーカにも、陽光は万遍なく届いていた。

それなのに「良い天気だ」と何気なく口にできないのは何故だろうか。

住居を兼ねる店舗の中庭に、訳もなくピンクの薔薇が咲き乱れている所為だろうか。否、それでは本末転倒だ。あの薔薇は訳もなく咲いたりはしない。十二宮の最後の番人を務めたアフロディーテが、異変を察知した時にだけ咲く花だ。聖域ではない、ごく普通の下町の片隅では毒性は抑えてあるものの、侵入者を撃退する効果は抜群である。

だからこそ、治安の悪いこの場所にあって、無防備なまでのこの家屋には未だ人の手による犯罪の被害が及んだことはない。

薔薇が咲き始めてから、2日。客足をシャットアウトした店内は静まり返っている。

カウンターのスツールに座りながら、シュラは、テーブルにあげられた椅子の足をぼんやりと眺めて頬杖をついた。

その直ぐ傍らでは、波打つ豪奢な髪がゆらゆらと揺れている。

だらしなくカウンターに突っ伏せて、手持無沙汰な様子だったアフロディーテは、一目見たら誰もが忘我するであろう夢見心地な美貌をずるずるとシュラの方へ向けた。

「たいくつなのだ……」

舌足らずな声が呟き、繊手がシュラの上腕へと伸びる。細い指先が、固く筋の張ったシュラの腕を撫でた。何をも切り裂く刃と化す腕も、アフロディーテにとっては警戒するものではない。いつでも彼を抱きしめ、優しくあやす腕だ。守るな、と言ってもいつでも守ってくれる腕。

こそばゆさに一瞬、筋肉を収縮させて、シュラはさりげなく身を引き、その腕をアフロディーテの髪へと伸ばした。こころなしか口元を尖らせたアフロディーテを宥めるように頭を撫でる。

「退屈って、おまえ、店が開いてたって働きゃしねぇだろーが」

そんな2人の様子をよそに、カウンターの奥、店の主であるデスマスクが鼻先で笑う。手際良くグラスを磨いては、グラスハンガーにそれを戻していく。

「はたらいてるのだ。お金はらって、って、みんなはらってくれるようになったでしょ」

「そんなん労働のうちに入るかよ。ツケで飲んでく客ばっかだったのがおかしいって話だ」

「ツケで飲ませていたのはお前だろう。ロディが出てくると支払が良くなると言ったのもお前だ」

「そーだそーだ」

類まれな美貌でにっこりと「おかいけい」と言われた客が、なけなしの金銭を懐から取り出す姿は、ここ最近、たしかに見かけた光景だ。

「ロディは笑って手ぇ出すだけだろが。タチの悪ぃおいはぎみてえなもんだ。それのどこが労働なんだっての」

「立派に労働だろう。お前やおれでは出来なかったことをやってくれているんだ」

なあ、とシュラがアフロディーテの顔を覗きこめば、あどけない仕草でアフロディーテは何度も首肯を繰り返した。

そんな役割でも与えなければ、アフロディーテは日がな一日、2階の寝室でベッドに横になり、スマートフォンとタブレットとパソコンと、あらゆる機械をインターネットについないでブラウジングだかザッピングだかに興じているだけなのだ。

聖域にいる間、彼らにはおよそ息を抜く時間はなかった。だからこそ、聖戦の後に生き返り、現世を謳歌できるようになった今、好きなことを好きなだけやらせてやりたいと思うのはデスマスクも同じだったが、この怠惰な魚は、手綱を完全に放したら最後、ヒキコモリニート道一直線を突き進む。

「甘やかしすぎだっつーの」

「デスのけち」

「仕方ない、あれはもう小言を言うのが生き甲斐の寂しい男なんだ」

「うわ、それはほんとうにさみしいのだ。デス、かわいそう」

「あー、お前ら今日飯食わねえんだな? そういう意思表示だな?」

じろりと一瞥すればシュラもアフロディーテもころりと手のひらを返す。日常茶飯事のじゃれ合いだ。口うるさくデスマスクが小言を言う。シュラはそれと対立する。アフロディーテはそんな2人の間を、面白おかしく漂っている。

ともすれば、よく飽きないものだ、と思う。もう20年に及ぶ歳月を、3人はこうして過ごしている。前半生はとても殺伐としていたけれど、基本的なスタンスは何も変わっていない。デスマスクとシュラは、考えることが人よりも少しだけ苦手なアフロディーテの為に、いつでもいろいろな方向へ進めるように道を示してくれるのだ。

「わたし、愛されてるな」

ほほえましさも相まって呟けば、変える反応も同じ。2種類の、愛情表現。

「どうすりゃ今の流れでそうなんだよ。ほんっと突拍子もねぇな、てめーは」

「もちろん、愛しているさ。伝わっているなら何よりだ」

ふたりともだいすき、と滅多なことでは口にしない言葉を、今日もアフロディーテは口にせず、にこりと笑って身を起こした。

薔薇が咲いている。

風が大輪の花弁を撫ぜている。

申し合わせたような沈黙が落ちたのは、日常の風景でありながら、決して、ここが日常の延長でないことを3人ともに理解している証拠だった。

――何かが、起きている。

今は隠棲している身であっても、かれらは本来、黄金聖闘士なのだ。女神の号令がくだれば、世界を守護するために身を擲って戦いに投じなければならない。冥王との聖戦は終わった。だからといって、世界中に散らばる不穏分子が一掃されたわけではない。

聖闘士の最高位にあるかれらは人間界で勃発する事件ごときでどうこうなるほど軟ではなかったが、ここ数年で身にしみた平穏が崩れさるのは辛かった。否、この予感が、軽視できるほどの簡単なものではないことを、長年培われてきた戦士としての勘が告げていた。

「厄介事だけはご免こうむりてーな」

ぽつり、とデスマスクが呟く。シュラとアフロディーテは無言のまま、彼の言葉に同意を示した。

その直後。

大きく風が吹いた。

いつでも湿り気を帯びた狭い路地の石畳が、一瞬にして乾いてしまう――そんな錯覚を抱かせる、風。と、同時に。

「あらら、すごい薔薇だねえ」

「本当だ。この季節に、こんなに咲くものなのか?」

「ちょっと浮竹。ダメじゃない、息、止めて。また咳こんじゃうよ」

「わかってる。いちいち心配するな、京楽」

彼らにとっては聞きなれた日本語だ。しかし、声の主に聞き覚えはない。

聞こえてきた会話は、あきらかにアフロディーテの薔薇の仕組みに気付いている様子だった。そして、気付きながら息を止めるというたったそれだけで、デモン・ローズの垣根を越えることができる、というもの。

3人が警戒した、と察知できる人間はおそらく、指で数えるほどしかいないだろう。はたで見ればただのんびりと、不意の来客を迎える様。デスマスクは再びグラスを磨きだし、シュラは僅かに居住まいを質す。アフロディーテはちらりと中庭の薔薇に目をやったきり、ポケットから取り出したスマートフォンに指先を走らせた。

小さい中庭を埋め尽くす薔薇の生け垣は、開け放たれた店のテラス席へと続いている。

棘のある花々を器用にかき分けて、来客が店へとたどり着くまであと数歩。

「おーい。お邪魔するよー」

低く深い呑気な声がかかる。

長身といわれるかれら3人よりもなお、背の高いシルエット。無造作に束ねられたうねる黒髪。肩幅が広く、胸板が厚いことは、瀟洒なシャツに羽織られただけのジャケット姿でも容易に伺えた。やけにのんびりした口調を裏切り、全身で「戦士」であることを語る荘年の男に、最初に応えるのはデスマスクの役目だ。流暢な日本語で、返す。

「悪ィな、閉店中だ。客なら出直してくれや」

「ん? あれ? 聞いてないの?」

「どうした、京楽」

「んー。それがねえ」

どうも話が伝わっていないみたい、と男が困ったように背後を振り返る。広い影にすっぽりと隠されてしまっていたもうひとりが、先行する男に続いてテラスに足を載せた。

白い。第一印象はその一言だ。年ふった老人のようなまっ白い髪が、長く背に垂れている。背丈だけならば、連れの男に引けを取らない。シュラと同じくらいだろうか。だが身幅は一回り、二回りは細い。連れの男の浅黒い肌と対比するかのような肌の白さ。老人ではないのだと言うことは直ぐに分かった。目元に刻まれた年輪はたしかに彼らよりも年上あることを告げていたが、きらきらと物珍しそうに輝く眸は、若々しいを通り越して幼くさえも見える。

ひょい、と連れの肩越しから顔をのぞかせた白い男は、とたん、ぱあ、と笑顔を浮かべた。

「初めまして、突然おじゃましてしまって、悪かったね」

「ちょっと、ちょっと浮竹」

「おい京楽。おまえも挨拶しろ。失礼じゃないか」

まるで警戒していない。極めて友好的な人好きのする笑顔だ。タケシのそれに似ている、と3人は懇意の青年を思い浮かべるが、同じあっけらかんとした笑顔でも、この白い男の方がなお底なしの明るさを称えていた。瞬時にして胸襟を開いてしまいたくなる。

遠慮なしに店先へ歩き出そうとした白い男の肩を、追い抜かれた連れが慌てて引きとめる。

「待ちなさいよ。話が伝わってないみたい、ってボクが言ったの聞こえなかった?」

「あれ? そうなのか? でもここで間違いないんだろう?――間違いないな。同じ匂いがするじゃないか」

「それでも。こんなに警戒されてるじゃないの。気付きなさいって。……って浮竹、息止めてなきゃダメだって言ったでしょお」

ぱちぱちと音を立てそうな勢いで瞬きを繰り返す。こちらを見る。目があった。にこり――柔らかく暖かい笑みが浮かぶ。そして単刀直入に。

「俺たちのことは、聞いていないかい?」

「残念ながら何処の誰からも、な。人違いだったら、さっさと帰った方がいいぜ。いつまでもそこにつっ立たれてんのは邪魔くせえからな」

「それは……困ったな」

白い男が顎に片手を当てた。心底「困った」顔だ。無条件で悩みを解消する手助けをしてしまいたくなる。

だが生憎、デスマスクもシュラもアフロディーテも、性根に善人の要素は少ない。自分たち自身でさえ「正義の聖闘士」を名乗ることに嘲笑を覚えることがあるほどなのだ。だから、あくまでもぼんやりとした態度のまま、相手の一挙手一投足をうかがっている。

「穿界門くぐる前にマユリ君が言ってたじゃない。もしかして、それじゃないの?」

「ああ――たしか断界が不安定になっているから、繋がる座標が僅かに狂う可能性がある、だったか? だとしたら涅隊長の言った通り、ずれた地点につながってしまった、ということか」

「そ。分かってるなら、出直そうよ。せっかくミラノまで来たんだから、観光してたって楽しいよぉ」

「馬鹿を言うなよ。連絡が行く前に着いてしまっただけだろう? 説明すればいいだけだ」

見た目をあっさりと裏切る情けない表情で連れの名を呼ぶ男を無視して、白い男は改めて店内に視線を寄越した。向けられたのは件の笑顔だ。

「うるさくしてしまってすまないな。じつは君たちに用があって来たんだ。手違いがあって連絡より早くついてしまったんだが……デスマスク、シュラ、アフロディーテ、君だね? おれは浮竹十四郎。こっちのヒゲは京楽春水」

聞いたことのない名だった。シュラが席を立った。それを制したのは、カウンターの奥からのびてきたデスマスクの手だった。

そのまま、デスマスクはクリーニングクロスをカウンターに放り出し、整えていない髪を鬱陶しそうにかき上げて、2人の来客に視線を据え直した。蠢かす鼻の奥で感じ取るのは、かれならば嗅ぎ慣れた――かれ以外にはおよそ嗅ぎ分けできない、微かなにおい。黄金聖闘士として肩を並べ同じだけの戦場をくぐりぬけてきたシュラやアフロディーテ、あるいは今は遠く離れた地にある他の聖闘士の誰であっても、デスマスクのように、このにおいを嗅ぎ分ける者はいないだろう。

アフロディーテが小さく音を立ててスマートフォンをカウンターに置いた。かすかに柳眉がひそめられる。大したことじゃない。そう告げる代わりに、デスマスクは細い肩に片手を置く。

そして、一言。

「あんたたち――……死神、だな」