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ステファン・ブラッドレイはアイフォンのディスプレイに表示された名前を愛おしそうに見つめてから、今しがたメールを送ったばかりの相手に、想像のなかで恭しくキスを送った。

来年、公開になる新作映画のプロモーションのさなか。最年少アカデミー主演男優賞受賞俳優であり、次回作では初の悪役を演じるかれは、現在、文字通り世界中を飛び回っている。久々に戻った本拠地、アメリカで、今はインタビュー録りの開始を待っているのだ。

もしインタビュアーが同席していたら、その世界中の女性を虜にした甘いマスクに浮かぶ笑みをカメラに向けてほしいと願うかもしれない。それほど、ステファンの表情は陶然としていた。

仕方ない。この収録が終われば、かれはイタリアへ飛ぶ予定なのだ。アリタリア航空1725初のエアに乗れば、明日の朝にはマルペンサにつける。まだランチさえ終えていない時間だと言うのに、ステファンは明日を思うと湧きたつ心を抑えられない。

――もう直ぐ君に会えるよ、隼人。

銀の髪の、意思の強そうな緑の瞳。美術商を営む妹の代理で運んだオークション会場で初めて会ったとき、ステファンは、かれの魅力に囚われた。

ただのオークショニアではなくマフィアであると聞いた。実際、同行したことによって命の危険にさらされても、それが些細に思えるほど、かれ――獄寺隼人はステファンの心をつかんで離さなかった。

ミラノ滞在は約2日。取材が5件。多忙を極める彼にしては緩やかなスケジュールである。関係各所に無理を言ってそのタイムテーブルを組んだ。それほど、会いたい。

――彼もいっしょにいるだろうけれど。それでも構わないんだ。

メールの返事はまだ来ない。ステファン以上に忙殺されている獄寺に、ただ一言「明日会えるよ」と送ったメールだ。直ぐに返事が戻るはずはないと分かっていても、待ち遠しい(ヘタをすれば返事など来ない可能性の方が高かったが)。

ステファンは、華奢な右肩上がりの背中を思い浮かべてひそやかに息を吐いた。瞼の裏、その後ろ姿には即座に寄り添うもうひとりの青年の影も浮かぶ。目下、ステファンにとっては最大の恋敵であるはずの黒髪の青年を、それでも嫌いになれないのはステファンの性格なのか、彼、山本武の人柄なのかは分からない。ただ、

2人でいるときのほうが、君の表情が綺麗だからね」

「なにが綺麗なんですの?」

思わず口に出た言葉に、思いかけない声が返る。

夢想世界から突然引き戻されたことは不愉快だったが、それを表に出さないくらい、ステファンにとっては造作のない仕儀だ。

とびきりの笑顔で顔を挙げる。

「ミス・ゾーイ。こんにちは。いらっしゃったんですね」

「このテレビ局はスタントンの傘下ですわ。あなたの次回作のスポンサーもスタントン・グループが全面に引き受けておりましてよ? アタシが顔を出しても何もおかしくありませんわ」

つん、と細い顎を逸らせる。ゆるく波打つストロベリー・ブロンドが揺れた。造作だけを見るならば極上の美人の部類に入るだろう。ひざ丈のタイトスカートからのびる脚も申し分のないラインだ。細身のスーツからは女性的な曲線がいっさい見えないのが残念だと思うところだが、抱き締めれば折れてしまいそうなシルエットに心惹かれる男性は少なくないだろう。それでもステファンが彼女を好きになれないのは、気位の高さを隠しもしない表情の所為だ。

実際、天下のスタントン・グループで、トップとなる男の秘書を務めている。プライドも相当高いはず。

折りたたみ式のパーソナルチェアに座るステファンを、彼女は容赦なく冷たい視線で見降ろしてくる。彼が立ち上がれば、その高低差は瞬く間に逆転するだろう。たぶん彼女の身長は5’7”はない。ヒールと態度で気付かないが、彼女の上背はそれほど高くない。

座って居るべきか、立ち上がるべきか、どちらが礼儀に叶うのか決めあぐねて、ステファンは結局、座したまま背筋を質した。

「わざわざご機嫌伺いに来て下さったんですか? 有難うございます。興行が成功するように全力を尽くします」

「当たり前ですわ。うちの損失になられては困りますもの」

「はは。手厳しいなあ」

「――ミスター・ブラッドレイ。収録の後、お時間はありまして?」

「え?」

前置きのない切り出しに、ステファンは大きく瞬く。恋焦がれてやまない翡翠色と同じ色をしているはずの彼女の瞳をのぞく。

――やっぱり、隼人にはかなわないな。

そんな感情を漫然と抱くステファンの目の前で、彼女は組んでいた腕を解いた。

「うちのマクスフィールドが、あなたにお話しがあると言っておりますわ。ランチのご招待に参りましたの」

「それは――有難いお申し出ですが。貴女が、それだけのために僕のところへ?」

「アタシだってこんな使い走りみたいな真似したくありませんでしたわ」

「使い走り、ですか」

「別件でジェダイトが手が離せないからって、マラカイト様が行って来いなんて仰らなかったら、誰が好き好んでネフライトの言うことなんて」

どうやらよほど気に食わなかったらしい。ステファンに聞かせるでもなく、彼女はぶつぶつと桜色の唇に不平をこぼした。

スタントン・グループの頂点に立つマクスフィールド・スタントンには、もうひとり秘書と呼べる人間がいた。短い金髪の、利発そうな表情の青年。けれど、彼女がいま口にしたどの名前も該当しない。ジェダイト、マラカイト、ネフライト。どれもが石の名前だ。ただ人数はあっているな、とステファンは漠然と思う。マクスフィールド・スタントンと挨拶をしたとき、彼の傍にはふたりの秘書と、ブレーンと紹介された青年がいた。中東系の膚色に北欧系の髪と瞳が印象に残ったことを思い出す。ひそやかなステファンの特技――相手の出身地を類推する能力が見事に働かなかった相手だった。

人数の合致、という点のみで、彼女の口にした名前がそれぞれに当てはまるであろうことを考えただけ、ステファンは慧眼だったのだが、彼がそれを知ることはない。

きれに整えた親指の爪を口元にあてた彼女に、ステファンは笑顔を改めた。

「あまり時間は取れないかもしれませんが、それで良ければ喜んでお伺いします、ミス・ゾーイ」

「そう。では収録の後、お迎えにあがりますわ」

「そんな、わざわざ。場所を仰って下されば自分で向かいますよ」

「時間が限られておりますの。移動中だって話すことはできましてよ?」

「それは、」

「あなたがミラノに――ボンゴレの皆さんのお会いする前に、どうしても話しておかなくちゃいけないんですもの」

「!」

椅子を蹴る勢いで立ち上がったステファンに、それでも、彼女は少しも動じた風はない。やけに好戦的な眼差しがステファンの動きに合わせて上を向く。

「貴女は、」

口を開きかけた瞬間、

「ステフ! 準備ができたよ、スタンバイして!」

馴染みのディレクターがセットの奥で彼を呼んだ。

それを合図に彼女が踵を返す。ステフ、ともう一度名前が呼ばれた。歩きだした背中は用は済んだとばかりに振り返りもしない。

――隼人。

ぐ、とステファンは拳を握りしめた。

何故だろう、ひどく嫌な予感がする。

どうか気をつけて、と一言、メールを送ろうかとも思ったが、何の理由もない忠告が彼の行動の抑止力になりはしないことを知って、ステファンはつめていた呼吸をゆっくりと再開した。