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乾いた風だ。
病人の咳音と錯覚しそうなそれは、11時間以上の距離を移動した彼らを追いかけて来たのではないか、と思わせ、思わず中条はサングラスの奥で視線を曇らせた。
広いリムジンの窓にうっすらと写る彼の表情は微動だにしていない。しかし、シートに間をあけて座るとなりの男には、そんな些細な表情の変化も容易く見抜かれる。
「お前が不機嫌になったって何も解決しやしないぞ」
どこか人を食ったような口調。深さと軽さの絶妙なバランスの上で成り立つ声音は、振り返りもしない中条に気分を害することもなく、先を続ける。
「焦ったところで仕事が終わるわけじゃない。俺たちに最も必要なのは忍耐の二文字だからな」
「――」
「返事は?」
分かっている、と応える代わりに片手を閃かせる。その仕草、態度が子どもじみていたせいだろう。自覚して改めるより先、中条は、隣の男――I.C.P.Oの先輩であり上司でもある韓信のちいさな笑い声にさらされて、重苦しいため息をついた。ようやく顔を向ける。
日本人にしては長く均整のとれた手足を億劫に動かして居住まいを質す。中条が己の態度をごまかそうとしていることさえ、韓信はお見通しのようだ。人を食った笑いがさらに増し、思わず中条は咳払いでそれを遮った。
「……焦ってるわけじゃない――ありませんよ、先輩」
「そうかぁ? ずいぶん苛々としているように見えたがなあ」
「あんたほど悠然としちゃいられないのは、確かですが」
「よせよ、その敬語。似合わん」
「任務中だと仰った。あんたはおれの上司ですから」
憮然と返せば、韓信は口をつぐむ。だからといって笑みが消えたわけではない。細められた目元、薄くつり上がる口端。好漢、と称すにはいささか酷薄そうな、それでいて人を油断させるような隙だらけの横顔。何を考えているか分からない、と中条などは思うのだが、それでも、I.CP.Oの一部に於いて、韓信の人望は絶大なものがある。
さもありなん、韓信というこの男は、国際刑事警察機構において、国境をまたぎ数々の功績を収めてきた伝説的な人物なのだ。はたで見るからには、青年と言うには薹が立ち始めた自分よりも若く見えることさえある。だが実際の年齢を中条はまだ知らない。少なくとも自分より下、というのはあり得ないだろう。日本の一刑事として己の力を持て余し、くすぶっていた中条をI.C.P.Oの特務班≠ノ引きぬいてくれたのは、既にそこの指揮官であった韓信その人なのだから。
不意に、韓信の口調が改まった。
「まあ確かに、な」
「?」
「俺とおまえがふたりそろって出向く羽目になった現状を鑑みれば、あながち、お前の焦りは間違っちゃいない」
「……分かっているなら、」
「こんな事態は想定外だ」
中条はこの段になってはじめて韓信をまじまじと振り返った。らしくない、と一言が喉元に出かかる。悠然と、泰然と。常日頃の韓信を知る人間からすれば、それらの形容をはがされた男の横顔を見せられるのは、虚を突かれたに等しい。
「――もう、一月だ。後手もいいところだからな」
世界各国から選りすぐられた精鋭部隊である特務班に、設立以来、未だかつてない甚大な被害が出ている。事件が勃発して以来、韓信は、I.C.P.Oの各部署のみならず各国首脳や警察機構、軍関係者、さまざまな人間との対応に追われていた。本来であれば今すぐにでも出陣したいんだ、と愚痴をこぼす姿も見た。
「この俺のつくりあげた部隊が始末に負えないとはな」
「あんたの責任じゃない」
「当たり前だ。そんなことまで背負っていられるか」
ふ、と口元が緩む。中条の口を突いて出た慰めにも似た一言が、韓信にどう届いたのか、中条には、やはり、分からない。
笑み。何も読めない表情。否、はじめから読もうとすることが間違いだ。韓信を理解することができる人間など、この地上にたったひとりいるだけ奇跡だと、この地上でたったひとりしか有し得ないと言われる能力≠持つ中条は、そう内心で結論付け、吐息をこぼす。日ごろ着慣れないスーツの喉元が苦しい。ネクタイを緩めたいと思ったが、そこまで分別のない行動は、この年齢では流石にはばかられた。
同じように着慣れないはずのスーツを意にも介さないような韓信が、ゆっくりと車窓の外へ視線を向けた。
「そろそろ着くか」
外からの視線を遮るだけではない。特務班・技術局がつくりあげた最硬度のガラスがはめ込まれた窓は、閉塞感を与える程度にはこちらからも外の景色を遮っている。韓信には通用しないのだろうか。
「おまえ、ミラノに来たことはあったか?」
「唐突だな……」
「いいだろう、答えろ。任務に関係あるかもしれないだろ」
『来ていますよ、2年前。中条君が覚えているかは、わからないけれど。何しろ君はいつでも鉄砲玉』
運転席と仕切られているため、2人だけだったはずの空間に第三者の声が響いても、2人はさして驚きはしなかった。車内のちょうど中央、稼働したヘリオディスプレイが淡い光とともに、特務班本部を映し出した。
「張良」
『ご機嫌いかが、お二人とも。もうすぐご到着のようだけれど』
にこり、と微笑む白皙。肩で切りそろえられた黒髪が、僅かに傾いだ首の動きに揺れる。
「張良、良かった。聞いてくれ。中条のやつ、さっきから苛々と、更年期障害が始まる年齢でもあるまいに」
「あんた、言うに事欠いてなんてこと言ってんだ」
「妊娠中の肉食獣のほうが良かったか? まあおまえは確かに獣っぽいけどなあ」
『あなたに言われたら中条君が可哀想です。――話をしても?』
よろしいか、と僅か抑揚を欠いた声が続ける。スクリーンの上では、あくまでもたおやかな微笑みだ。あまりにもはかない。ともすれば性別を見誤らせることすら造作もない佳人は、しかし、中条の知る限り、特務班に在籍する人間のなかで唯一、韓信と対等に話すことのできる実力者である。――尤も、かれが人間である、という保証はない。それが特務班なのだ。そう思わせる羽化登仙の風情が張良にはあった。
あからさまにあしらわれた韓信は、無言で肩をすくめ、両腕を組んだ。たとえ8000kmの距離をおいても、韓信と張良は言葉を超えての会話を可能にする。その関係性を羨んだことはないが、いずれ自分にも同じことを行える相手が見つかるかどうか、考えたことはあった。その相手が既に遠い異国の地に誕生していることなど、今の中条に知る由もない。
『先ほど日本の大塚君から連絡がありました。あちらでも既に動きがあるとのこと。ただ、そちらでお相手が把握しているとは限りません。必要となったら情報の提供は惜しまずに』
「わかった。――ずいぶん奔放なようだな雲≠ヘ」
『自由だからこその雲でしょう。あなた方のお相手もそれなりに難物ですよ。お気をゆるめずに。大塚君が引き続き偵察をおこないます』
「行き先は?」
『関東極天獏連合の本部。あなたの読み通り』
「読んだわけじゃない。そうなるだろうと思っただけさ」
他の動向は、と韓信が訊く。その問いに答える材料を集める労力を想像するだけでも中条はうそ寒くなったが、何食わぬ平然とした様子で、張良は応えた。
『発端となった晴≠ヘ現地で拘束されたままです。霧≠ヘ変わらず、嵐≠ニ雨≠ヘあなた方をお待ちしていますよ』
「どうしたもんかな……」
『晴≠フバックアップは、おそらく直ぐに雲=\―いえ、極天獏連合が手配するでしょう。こちらはどなたに?』
「任せる」
『では懸案だったギリシア――聖域≠ナすが』
張良の言葉に、韓信が身を乗り出す。急いたように口を開く。
「どうだった。今回の件、あそこの手は必ず必要になる。人数が限られていることは分かっているがな」
『あなた方の手腕にかかっているようです』
「簡潔に言え」
『今現在、あなた方の傍に数名。黄金、だそうです』
「ミラノにいるのか!? 黄金といえば、聖域を守護して出てこないんじゃなかったのか」
しかも複数。その事実は、さしもの韓信から驚愕の表情を引きだした。即座に眉根が寄る。
「うまく繋ぎをつけられるか? 複数――あるいは、あそこはあそこで動き出したのか?」
『ですから、あなた方の手腕に。その複数名、どうやら聖域の手を離れたところで嵐と雨と、関わりがあるようなので』
「!」
途端、韓信の表情が変わる。中条でも滅多に見たことのない、嫌な笑みだ。否、人によっては会心の、と評するかもしれない。だがどこか得体の知れない、謀計を腹蔵したそれに見えるのだ。
「グラード財団を通さなければ連絡が取れないと聞いたときは肝を冷やしたが……ツキが回って来たようだな。良かった。あそこはスタントン・グループと繋がりがある。迂闊に触れれば裏目に出ると思っていたが、そうか」
そうか、と男はもう一度つぶやいた。グラード財団、スタントン・グループ。現代社会において知らぬ者の少ない巨大組織の名をふたつ、いとも容易く、しかも決して好意的ではない感情で口にした韓信は、何事か思案するように口元を片手で覆う。
スクリーン越しにそっと目を伏せた張良が、ややあって、中条を向いた。長い睫毛が微かに震え、目元にうすい影を落とした。
『中条君、このひとを頼みます。あまり世界に嫌われないように。手に負えないようなら、殴りつけて。死にやしませんから』
「それは嬉しいお墨付きだ。せいぜい全力で殴ることがないように祈っててくれ」
「待て待て、暴走するのは中条だ。俺はストッパーだぞ」
『どの口がご冗談を。――韓信、私はこれから尸魂界にも連絡を取りますので。以降、仲達に引き継ぎます』
「そうか。わかった」
尸魂界。初めて耳にした言葉に中条は眉を動かすが、もとより彼らに問いを向けても答えが返る確率は低い。しかし韓信が薄情とさえ取れるほどあっさりと頷いたのだから、そこはおそらく、張良以外の誰にも任せられない場所なのだろう。
『2人とも』
宙をすり抜けそうな平坦な声音が、前触れもなく2人の注意を呼ぶ。
『くれぐれも、お気をつけて。今からあなた方が向かう先の相手は、年若いとはいえ、この世界で通る名を持つ子たち。若さは侮りとひとしくはない。思いもかけぬ絲を手繰り寄せることもあるでしょう。そして解決すべき事件は――』
韓信の片手があがった。制止されたままに張良は口をつぐむ。言われるまでもなかった。曲がりなりにも警察と称する団体に所属する自分たちが、本来であれば対立すべき存在――マフィアとの繋がりを求めて、解決せざるを得ない事件なのだ。
一瞬、張良が物言いたげな視線を向けた気がした。しかし、続いてあっさりと光源を落としたディスプレイに、錯覚だったのだろう、と中条は強引に結論付ける。憂いと見えた眼差しとは打って変わって、隣の男の笑みがますます深まったことも、思考を中断せざるを得ない原因のひとつだった。
「さあ」
と男は笑った。
「マフィア・ボンゴレ。どんな連中なのか、益々楽しみになってきたじゃないか」
なあ、と同意を求められても、答えが返らぬことは韓信も承知している。そういう男だ。
再び車窓へと視線を戻した中条は、気の毒に、と未だ見ぬ相手に、こっそり呟いた。