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The pure and the tainted
23.
電話が発明されてから約1.5世紀。
単なる電流の断続にすぎなかった通信網が、いまや世界のどこいいてもタイムラグなしに、
しかも、お互いの顔を見ながらの会話を可能にするようになった。その進歩の速度を早いととるか、遅いととるかは、好き好きだ。
リアルタイムの情報ほど価値のあるものはない――恒常的にそう考えていたはずの男は、
今日、この場にいたって、初めて発達した通信技術を憎いとまで思った。
『――聞いているのかね、ジョバンニ・フェローCEO』
目の前に映し出される男の表情は、声音同様、ひどく険しい。
国内軍事産業の一角を担う一代企業のCEOとしてのプライドなど、目の前の男が考慮するはずはなかった。
それらしさを演出するために場所を移したCEO室も、国防参謀総長の視線には成金の悪趣味に見えているに違いない。
被害妄想はその段に達していた。
胸を開いたまま答えられたのは、辛うじて理性にしがみついていた矜持のなせるわざだった。
「聞いております、閣下。ですから、ご安心くださいと申し上げております」
『実験に異変はないと?』
「おっしゃるとおりです、閣下。はじめから実験のお披露目には24時間の猶予を頂戴していた。
――時間はまだあるのではありませんか」
政権交代に次ぐ内閣改造によってその地位を脅かされたはずの国防相が、
男――フェロー兵器工業の“新兵器開発”の話に飛びついてきてから、まだ数ヶ月しか経っていない。
幸い、国防相がその地位から追われることもなく数ヶ月が過ぎたが、弱体した政府中枢にいつメスが振るわれるとも限らないのだ。
そんな国防相と密接な関係を築くことで、軍需の大半を請け負ってきた。
フェロー兵器工業の今日の隆盛は、そうした極めて不公正な結びつきを糧にしている。
『……』
今日、国防相の代理としてかれに連絡を求めた国防参謀総長は、イタリア人らしからぬ謹厳な表情を一筋も動かさず、
『ミラノの経済活動をこれ以上ストップさせることが望ましいとは思えないのだがね』
「しかし、それは今後の経済的展望のためにも必要な措置で、」
『今後の“君たち”の経済的な展望にとってだろう』
男は押し黙る。
『今日、我が国内でミラノ一区画が生み出す経済効果の規模を知っているだろう。
それと互換する価値を我々が見いだせるのかは、甚だ疑問だ』
「――それは」
『君は実験場の選定を誤ったようだ。経済的な問題も視野にいれると同時に、
住人たちへの配慮が足りなかったのではないかね』
参謀総長の言葉に、男ははっとして顔をあげた。
「まさか、ボンゴレが」
『――』
沈黙は雄弁な回答だった。
無関係を装えない状態を知り、男は、かれに新兵器の開発費用と引き換えに一切の権利を譲渡すると言いながら
近づいてきた女の顔を思い浮かべた。
冷淡で、愛想のひとつもないアメリカ人。
だが、女に対して湧き上がった怒りは、同時に目の前の参謀総長に対しても同等の温度でかれの身の内に生じた。
「あ、あなたがたは恥ずかしくないのか!
たかがマフィア相手に、政府が――国防を預かる高官が、交渉に応じるなど!!」
『かれらの歴史を侮ってはいけない』
「馬鹿な、どんな崇高な理想を掲げようと、マフィアはマフィアだ!
無法者、つまりは犯罪者にほかならないだろう!?
近年“マフィアとの決別”を唱えた政治家はことごとく選挙で大勝を収めている。
あんたたちも、クリーンな政治が売りじゃなかったのか!?」
『君の幼少時代には心から同情する』
「!!」
激昂した男とは対照的に、参謀総長の表情は眉一筋動かない。
『君の故郷は数十年まえ、激化する抗争のただなかにあった。さぞ苦労したことだろう』
「それは――私の過去は無関係です、閣下。
ただ、私は、市民のためにも目に見える力と正義を示したいだけなのです!」
不思議なことだ。
美辞麗句の大義名分を連ねることで、まるで、自分がはじめからそうした思想の持ち主であったかのような錯覚を覚える。
政府との癒着を解消されれば、まず、間違いなくフェロー兵器工業は破産宣告を受ける。
一社員から、ここまで成り上がった。先代社長のひとり娘というだけで、なんの魅力もない女と結婚もした。
ようやくこれから人生の甘い蜜を吸えるのだと期待した矢先、
国内経済の破綻、EU諸国ならびに世界的経済危機に見舞われ、挙句の果てに政権交代、政府方針の180度転換ときた。
みずからの利権を維持するために立ち回っていただけだというのに、口をついた虚言は思いのほか心地よく、彼を陶酔させるものとなった。
しかし――
『目に見える正義が、あの化け物なのかね』
瞬く間に冷水を浴びせられる。
『まあ良かろう。実験には、幸い“一般市民”の死傷者は出ていない――約束は約束だ。
残り数時間のうちに確固たる結果を示さなければ交渉は終わりだと上も言っている』
成果がなければ、一夜にして転落。
男は血が出るほどに唇を噛み締め、デスクの下で手のひらに爪を食い込ませた。
参謀総長の姿がディスプレイから消える。
みずからの顔が鏡面に映し出されたとたん、男は手元のコンソールを叩きつけるようにして、
隣室に控える秘書に女を呼ぶよう告げた。
間をおかず、席を外させていた護衛たちが室内に舞い戻ってくる。
最新鋭の自社製品を装備した護衛が配置を完了するまで数秒。
そこから、女の来訪を秘書が告げるまでの数分は、ひどく長く、苛立つばかりの時間となった。
「お呼びになりまして?」
現れた女の第一声は、かれに対する侮蔑に満ちたものだった。
それが引き金となって、男はデスクに拳を叩きつけた。
「きさま、ボンゴレに手を出したな!!」
「――なんのことかしら」
「とぼけるな! ボンゴレから政府に“苦情”が入ったのだぞ!?
実験に対して、懸念を示されたではないか!!」
「あら。もう、ですの」
さすがだわ、とひとりごちるように言った女の口元に冷笑が浮かんでいる。
彼を見下すのと同様、あるいは、それ以上の快くない感情が女の視線に浮かぶ。
彼女がここまで明確な心情を示すのは、おおよそ、珍しいことといえた。
だからこそ、男の胸中は、瞬く間に疑念が占めた。
――合衆国内では理論の非人道的さゆえに開発にまで至らなかった。
女は、はじめ、彼にこの実験を売り込む際にそう説明したはずだ。
理論を聞いた男は、さもありなん、と思った。
同時にそれがどれほど有用なのかも、長年、軍事工業に携わってきたかれには瞬時に理解できた。
しかし――人間を材料に、それ一体一体がさまざまな科学兵器に匹敵する軍事力を内包する人造の戦士を生み出す実験が、
果たして、あの軍事大国において排除されることなどあるのだろうか。
合衆国が、表立っては人体実験の非を声高に唱えながら、
国家予算の数%をつぎ込んで日夜、そうした研究に励んでいることなど周知の事実だ。
男にとって不幸だったことは、女の理論を実践させる工程に対する検証を行わなかったことだろう。
なぜ、合衆国で受け入れられなかった?
男は、初めて目の前の女に恐怖を覚えた。
「――ふむ。手がかりを与えすぎたようじゃの」
唐突に。
飄々とした老人の声が男の耳に忍び込んだ。
いままで気づかなかったことが不思議だった。女は、彼の許可もなく老人を随伴していた。
枯れ枝のような小柄な老人だ。
それが、自分よりもふたまわりは大柄な赤ら顔の老人を抱えているではないか。
「実験場の情報提供者から目を離しすぎじゃ。
ほれ、捕まえておいてやったぞ。あやうく密告されかねんところじゃった」
細い腕がこともなげに意識のない老人を投げ捨てる。
実験材料と実験場に関する情報提供を行なった老人だということを、男は知らない。
むしろ、彼の許可もなくこの部屋に第三者を随行させた怒りが先行した。
否、激怒に任せなければ、女に抱いた恐怖を払拭することは不可能に思えた。
腰を浮かせた男は、身を乗り出して護衛たちに叫ぶ。
「その薄汚い老人をつまみ出せ!!」
即座に護衛が武器を構える。
女は動かない。
老人がため息をつく。
「やれやれ、年上は敬うもんじゃ」
――呆れたような声音で告げた老人が、顔を上げた、と思った瞬間だった。
鼓膜を打ち破らんとする激しい耳鳴りに襲われ、男は前かがみに倒れた。
昏倒する寸前、彼が製造した商品が、護衛たちの手元で一斉に暴発する惨事を目撃せずに済んだことは、
せめてもの救いだったかもしれない。
女がわずかに顎を上げた。
すがめた視線が、老人に向かった。
「ふむ、やってしもうたわい」
何食わぬ顔で老人が首を鳴らす。
「――どうしてくれるの」
「なあに、捨て駒にされるのは、ごめんじゃからの」
思わせぶりな眼差しが女に注がれる。
「妙に金払いの良いクライアントには、注意するようにしとるんじゃよ」
「結構な心がけだわ。けれど――ここで、この男が死ねば、あなたたちに流れる資金はストップしてよ。
なにより……無事に出ていけるかしら」
ほっほ、と老人が乾いた笑いをたてた。
つま先に流れてきた赤黒い血を、道化の仕草で避ける。
完全防音の室内には、吐き気を催すほどの血臭が満ち始めている。
女が呆れたとでも言いたげに目を伏せた。
この惨状のただなかで顔色を変えずにいるのは、賞賛に値する、と老人は内心で揶揄の笑みを浮かべた。
「あと何時間もたせれば良いかの」
「?」
「なあに、わしらが無事に帰るまでは、もつじゃろ。ほれ」
老人は何をしたのか――女は目を細めて、ジョバンニ・フェローという男の抜け殻がゆっくりと身を起こす様を眺めた。
彼女がこの実験のために理論を転換させるまえ、合衆国の科学者という肩書きを背負っていたころ、
たしかに、老人が駆使する技術に関する提案を見たことがあった。
特殊な指向性を持ったある種の電流を発生させ、機器の操作者と対象の脳波をリンクさせ、意識を簒奪する。
しかし、電流の微妙な調整が成功することはなく、操作された人間は機器が停止した後も、
よくて脳死状態に陥るという非道徳的な“欠陥”を解消させる理論が見いだせず、開発は中止されたはず。
ほんの10年――倫理と言う壁を無視してしまえば、開発可能な歳月ではあった。
――けれど。
女はみずからの項を撫でながら、静かに呼吸を繰り返した。
――たとえ倫理感を殺したとしても、私の実験は、だれも真似できない。理論も見つけられない。この世界では。
意を決した女は老人を振り返った。
組んでいた腕を解く。
女が髪をかきあげたときだった。
デスクのうえのインターフォンが鳴り、秘書からのコールを告げる。
女は老人を試すように見つめた。
応えて、老人は軽く笑った。直後、ジョバンニ・フェローの腕が動き、唇が震えた。
「どうかしたかね」
声音も口調もかげりひとつない。たいしたものだ、と女は老人に頷いてみせた。
案の定、秘書は変化のひとつにも気づかず、
『面会のお申し出がございます。至急、とのことですが』
「ほう。誰からだ」
『それが――』
告げられた名前は決して驚くべきものではなかった。
――わざわざ出向いてくれたなんて。
彼女の胸は高鳴った。
初恋の相手と20年ぶりに再会したときのような熱が、彼女の薄い肌を火照らせる。
「ご丁寧におもてなしをしてちょうだい」
吐息が震えるのを隠しもせず、女は老人に指示を下した。
彼女のビジネス・パートナーは、この瞬間、イタリア屈指の軍事企業の経営者から、目の前の老人へと替わった。
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