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The pure and the tainted
21.
ずきずきと響く四肢の痛みより先に、意識を蕩けさせる甘い芳香によって、女は目を開けた。
暗闇だ。何ひとつ見えない。
――?
だが、パニックにはならなかった。
花の香りが驚くほど彼女の神経を曖昧にさせている。
――目隠し。
ややあって、視界が覆われているのだと気づく。
当り前だろう。彼女は、目に見えるモノを発火させる能力を持っている。
視界を奪うのは常套手段でしかない。
――つかまった。
今度こそ、敵の手に落ちたのだと言うことを彼女はぼんやりと悟る。
恐怖はなかった。
屈辱も――不思議と少ない。
おそらく、この香りのせいだろう。
麻薬かなにかだ、と女は想定した。
あるいは別のなにかであっても、もう驚きはしない。
彼女たちが常軌を逸した武器や能力を持つように、世の中には、想像を絶する事象が数多く存在するのだろう。
現に、彼女が二度にわたって対峙した黒髪のスパニッシュは、
――人間じゃない。
そう、彼女に結論づけさせるに相応しい相手だった。
瞬時にして人体を灰にできる数千度の炎さえ生み出せる彼女の能力が、児戯のようにあしらわれた。
何一つ武器は携行していないように見えたと言うのに――炎が裂かれ、彼女の足もとごと、地面が抉られた。
あっという間に勝敗は決したはずだ。
同行した男がどうなったのかを考える余裕はない。
おそらく無事ではないだろう。
人体の能力を極限まで高めるといっても、しょせん、人工物だ。相手が人間でないのなら、敵うはずはない。
「……おきた」
耳元に声が聞こえた。
抑揚のない、どこか夢見心地な声だった。
初めて聞く声――それが、彼女の意識を麻痺させながら覚醒させた芳香を生み出した主だということを、彼女は知らない。
いくつかの気配があった。
拷問されるのだろう、と思ったのは、彼女が生きて来た環境ならば考えてしかるべきものだ。
捕虜には人権などない。否、そもそも彼女は“人権”などという言葉を知らずに今日まで来ている。
助けを請う母親を子どもごと焼き殺した。わざと低温であぶりながら、泣き叫ぶ老人を弄んだこともある。
だからこそ、彼女は自分が何をされても仕方ないことを知っていた。
けれど。
「時間を貰ったおかげで、ずいぶん絞れたぜ」
淡々とした声を発したのが獄寺だということに彼女は気づいた。
端正な顔立ちと白い肌を思い出す。
夕闇に映えた銀髪の繊細さは、彼女でさえも心ひそかに羨むほどだった。
「てめえの依頼主は、このなかにいんだろ?」
読み上げられる名前。
――だいじょうぶ、と女は乾いた唇を嘗めた。
獄寺が羅列する名前は、いずれも企業名だ。それはあの女の依頼主かもしれないが、彼女にとっては関係のないもの。
敢えて覚えづらいイタリア語の名前など、記憶させていない。
ただ覚えているのは、敷地のあちこちに刻まれた、数万ドルかけて作られただろう嫌味なまでに瀟洒な企業シンボルだけだ。
「知らないよ」
だから、彼女はそう答えた。ろれつは回っていなかった。
嘘はない。
気配のひとつが動いた。
「別嬪さん、ちいとばっかし俺に交替してくれや」
聞き覚えのない声がする。
「まどろっこしいことやってる時間はねえだろ?」
「どうする気だ?」
「なぁに、“直接”訊くのさ」
嫌悪感と警戒心で女の肌は粟立った。
いよいよだ、と覚悟を決める。
気配が近づいた。
「デス」
「わぁってら。犯りゃしねえよ。こんな衆人環視で」
「みられててもへいきなくせに」
「相手を選ぶってーの。こんな泥くせえ女に食指が動くかよ」
どこかで溜息。
屈辱に頬が上気する。
「おい、冗談ぬきで、手荒な真似はするんじゃねえぞ」
獄寺が口を挟む。
わかってる、とやけににやついた声音が繰り返し、女は、自分の顎を捕える手を感じた。
身体に力が入らない。喉が反らされる。
奥歯を噛みしめた。
次の瞬間、彼女の脳裏には彼女の意志ではない何かによって、映像が浮かび出した。
――なに!?
記憶巣から無理やり引きずり出されていく。不快極まりない奔流。
次々と浮かび上がる建物、門扉、景色――彼女がここに来るまでにたどったルート。
「……っ、」
あまりの不快感に嘔吐きかける。
「――」
意識が揺さぶられる。脳の一部をわしづかみにされたとしか思えない痛みが彼女を襲った。
男の声が、彼女の記憶を言語化していく。
景色だけではなかった。彼女の記憶に残された、稼働される前の“実験体”と称された化け物たちの映像も、あの女から告げられたつぎの実験開始時間のことも。
「!」
息を呑む気配。間髪いれずパソコンの稼働音がした。
ややあって、
「――なるほどな。ありえねえ話じゃねえ」
獄寺が神妙な声音で応えた。
男の手が離れる。
短い吐息が肌に触れた。
「獄寺?」
「『フェロー兵器工業』だ」
「それって、あのばかでけえ工場があるところ!?」
「ああ。政権交代で、指定軍需産業の再選定にかけられてる最中らしいからな。
前政権とずぶずぶだったが――なるほどな、ふるいから落ちそうになったからって、
起死回生におかしな“兵器”を作り出してもおかしかねえ。
ミラノひとつを取引材料にするくらい出来るだろうぜ」
しばらくの無言。
激しいめまいに、女は半ば茫然と室内の会話を聞いた。
「リストによれば――あった。スイス、フランス、ドイツ……口座の経由先も網羅してやがる」
「すっげ。どーやって分かったんだ?」
「……直接訊くっつったろ」
彼女の傍から気配が遠ざかる。
軽口の声に漂うのは疲労だ。
「ったく、催眠訓練とか受けてる連中は骨が折れるわ」
「ちょーのーりょくってやつ?」
「まあ、な」
「便利なのなー。……オレにもできる?」
「おい、冗談じゃねえぞ。そんだけ強くて、こっちの株まで奪う気か?」
ここが捕虜を捕えた現場だとは到底おもえない、そういう明るさを感じさせる声音だった。
――気持ち悪い。
彼女はひどくいびつに息を呑んだ。
こんな世界は知らない。
捕虜なんて、拘束して、自白剤を打って、レイプして、用がすんだら憂さ晴らしのように殺されるだけ――のはずだ。
人間としての尊厳をすべて奪い取って、絶望の淵に叩き落として。少なくとも、彼女は今までそうしてきた。
「その話、嘘じゃねえだろうな?」
獄寺の声音がひそめられる。
「勘違いだった、で済む相手じゃねえ。確証はあんのか」
「証拠をお見せできないのが残念ですがね」
わざとらしい芝居がかった口調が返した。
「獄寺さん、疑念はわかる。だが、これは信じてください」
スパニッシュ――彼女の状態を把握しながら、この場で唯一、警戒の気配を絶やさなかった男が口を開いた。
「デスのESPは本物です。おれが証人になる」
「わたしも」
薔薇の香りだ、と気づいたときには、その香りはあえかに遠ざかった。
「君がしんじないなら、わたしたちで行く」
「おいロディ。やけに乗り気だな。珍しい」
「だって」
「?」
「……デスもシュラも、行くのだろ? だったら今度はわたしも行く。
わたしがまもらないと、君ら、平気でけがをするから」
香りが動く。
遮るように獄寺が言った。
「ちょっと待ってくれ――アフロディーテ?
こいつらの狙いは、オレたちだ。これ以上部外者に面倒かけるわけにはいかねえ」
「ぶがいしゃ」
「そうだ。ボンゴレに売られたケンカなら、けじめはオレたちでつけるのが筋だろ」
「君はばかなのだな」
「!?」
面と向かって言われた一言。
「わたしたち、家がなくなった。デスはこんなにけがをしている。シュラだって、リベンジしたがっている。
中途半端に巻き込んで、いまさら部外者あつかいは失礼だと思わないのか」
女なのかもしれないと思った茫洋な気配は、しかし、存外しっかりと紡がれた言葉で、男かもしれないと思い直した。
「ロディ、もういい」
スパニッシュが先に応える。
「獄寺さん、申し訳ないが、最後までつきあわせてください」
「オレらがいりゃ、いざってときに『ボンゴレは関係ありませーん』ってシラだって切れんだろ。
全部俺らにおっかぶせろ。疑いはそれでチャラにしてくれや」
悩んでる暇はねえぞ、と男の言葉が続いた。
「このお嬢ちゃんとはべつに、例の化け物だっていつまた出てくるかわかりゃしねえ」
「――」
獄寺、ともうひとり、べつの男が名を呼んだ。雨の守護者だろう。
名前を呼ぶ響きが、ほかとは違うイントネーションだった。
少しの間があった。
ぱん、と紙をはたく小気味良い音に続き、
「……極端な電力値と通信量の負荷。金の動き。問いただす材料はそろってる」
「じゃ、」
「てめえらに全部負わせるようなことはしねえ。だがうちの兵隊は動かせねえ。頭数として、使うぞ」
いいな、と念を押す声に頷きの気配が返った。
今度こそ、彼女は自分の死を覚悟した。
用が済んだ捕虜にいつまでも構っている暇はない。戦場とは、そういう場所だった。
再び香りが鼻先に近づいた。
甘く柔らかな香気に包み込まれる。
「おやすみ」
耳元に忍び込んだ声を合図に、彼女の意識は闇に沈んだ。
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