The pure and the tainted

16.


憂いに満ちた絶世の美貌がディスプレイに漫然と視線を注ぐ。
緩やかに波打つ豪奢な金髪が縁取る輪郭。
100人に聞けば100人が絶賛し、同時にその憂愁に胸を痛めるであろう横顔が、
単に「ぼけー」っとしているだけなのだと知るのは、世界でもごく僅かしかいない。
その僅かな数人もここにはいず、結果、アフロディーテの描画はこの空間で正しく認識されることはない。
観測者がいない事象など、しょせん、すべてが不確定に過ぎないのだ。
「……」
マジックマウスのうえで、細く白い指先だけが動く。
定期的に画面をスクロールしているだけのはずなのに、無機物のマウスすらも、アフロディーテに“撫でられている”ことを喜んでいるように見えてしまうから、不思議だ。
ときどき口元にちいさな笑みが生まれる。
それでもいつも以上に没頭できないのは、おそらく、PCがデスクトップだからだろう。
基本的にかれの行動範囲はベッドのなかだった。
枕の上においたノートブックを、寝そべった怠惰な姿勢でいじる。
日中、かれが独占していた大きなベッドは、そうしていても全く不自由を感じない。
180センチを超える大の男が3人、並んで寝ても苦にならないだけのベッドだった。
イタリアに越してきて、最初に買ったものだったと思う。
「――」
なかなか気に入るものがなくて、結局、特注になった。
それを搬入する際にも、業者はあの狭い路地に悪戦苦闘し、狭い間口に悪態をつき、
ついにシュラが切れて業者を追い返し、自分たちで分解し、組み立てなおして、設置した。
不真面目だ、無責任すぎる、と業者に怒るシュラに、ここはイタリアだぜ、と呆れたように肩をすくめたデスマスク。
「……もしかして、わたし、あの家、気に入ってた?」
思い出しながら首を傾げる。
インターネットができればどこでもいい、と言っていたのに。
――ちがう。気に入っていたのは、デスとシュラだ。
だから、アフロディーテもあの家が居心地良かった。
最初に組み立てられたベッドに寝転びながら、
次々と整えられていく室内環境をツイッターで実況しているときの興奮は忘れられない。
たぶん、3人でこんなことをしている――できる状況があまりにも予想外のことすぎて、楽しかったのだ。
くすくすと笑ったアフロディーテは、しばらくして、片頬を膨らませた。
「べつに、またひっこせばいいだけなのに」
躍起になって犯人を探すことも、犯人撲滅に手を貸すこともない。
本人はそこまで気にしている自覚はなかったが、どうやら、相当ひっかかっていたようだ。
もちろん、“いまの”アフロディーテの思考では、
引っ越しの費用計算やら戸籍を偽証しているかれらの手続きの煩雑さを想像することはできなかった。
静まり返る室内。
パソコンの稼働音。
椅子のうえ、膝を抱える。
ややあって。
「……?」
キーボードの傍らに置いておいたデスマスクのスマートフォンが、ぶるぶると小刻みな振動を始めた。
着信。
アフロディーテは首を傾げて、それを見つめる。
「シュラかタケシ以外は出るなって」
デスマスクに言われた言葉を反芻し、じっと見守る。
発信者表記は telefono pubblico――公衆電話だ。
一定時間、振動していたスマートフォンは、やがて再び沈黙し、代わって、留守番電話が応答を始める。
そこで――何を思ったか、アフロディーテは、表情一つ動かさないまま、スマートフォンを手にとった。
通話モードにならないように気をつけながら、耳元にそれを近づける。
デスマスクが「嫌い」と言っていた人工的な女性の応答ボイスがお決まりの文言を告げ、
続いて聞こえたのは、老人特有の痰がからんだような、ちいさなしわがれ声だった。
『その……テ、テレビを見た。おまえさんのところの……無事かと思って』
「――」
フランコ爺さん、とアフロディーテの口元が無言のまま名前を象る。
かれらの家と同じ区画の、角のアパートの住人。
いつも赤ら顔で、酒が好きで、ツケで飲みに来ていた。
死にかけの爺さんを追い払えねえだろ、と渋々ながら客扱いしていたデスマスク。
むかしはジェラート屋だったと聞いた気がする。
サルミアッキでジェラートをつくってくれると言っていたことを思い出したとたん、アフロディーテの表情が動いた。
『こんなことになるなんて……話したいことがあって電話したんじゃが――。き、聞こえてるか?』
留守番電話というのは、一定の年齢以上の人間にはなじみが浅いらしい。
戸惑うような声音。
それでもアフロディーテは言いつけを守り――思うところがあるのか――無言で聞き耳を立て続けた。
『よ、4時までサンシーロにおるから。そこで話を』
唐突に通話が切れた。
「……料金切れ?」
ピー、と電子音を鳴らすスマートフォンを正面に見て、アフロディーテは小首を傾げる。
サンシーロ。ミラノ一の競馬場だ。
表示される時刻を確かめれば、4時まで、あと一時間を切っていた。
「もっとはやくいえばいいのに」
つぶやいて、反対側に小首を傾げる。
――それを奇跡、と呼ばずして、何を奇跡と呼べばいいのだろうか。
おもむろにアフロディーテが立ち上がり、出かけるそぶりを見せたのだ。
極端な引きこもり体質のかれが、である。
「外に出るときは」
パジャマはやめろ、と言われていた。
辛うじて室内着ではある。
首肯ひとつ、アフロディーテはスマートフォンを手に、玄関を目指す。
デスマスクに連絡を入れようと思い、足を止めた。
かれのスマートフォンは、ここにある。
小宇宙で話しかけるにしても、どこにいるかわからないかれを呼んでしまったら最後、
聖域にかれらの居場所が筒抜けになるだろう。
――もうちょっと、内緒にしていたいな。
だとしたら、シュラに電話をするか。
けれどあの生真面目な男では、アフロディーテを止めるに違いない。
わたしだって強いのに、といくら言っても過保護を辞めないのがかれなりの甘え方だと知っているアフロディーテは、
それが歯がゆくもあり、愛おしくもある。
困って顎を引いたアフロディーテの耳に、玄関のチャイムブザーが聞こえたのは、それから直ぐのことだった。
「?」
戒厳令、とくにこの一帯の住人はほとんど避難しているはずだ。
どのみちこのタイミングでブザーを鳴らす客――全うな客であるはずがない。
間が悪い、と内心で呟いたアフロディーテは、それでも、躊躇することなくドアノブに手をかけた。
開いた。
――誰もいない、と思われたのは、来客があまりにも小柄な老人だったからだ。
そのままではアフロディーテの視界に入ることもないだろう。枯れ木のような身体が皺だらけのスーツのしたで泳いでいる。
「ほう、ほう」
老人の口から嘆息が漏れた。
「さすがにボンゴレ十代目の右腕ともなると、上等な女を囲っているものじゃて」
資料にはなかったが、と独白めかす言葉。
英語だ。スヴェンスカ、ダンスカ、グリーク、イタリアン、ジャパニーズ、
すでに5カ国の言語で許容量をオーバーしたアフロディーテの脳は、残念ながら英語を理解しない。
首を傾げ、かれは郷に入っては、の文字通り、イタリア語で話しかけた。
「だれ? お客さんならでなおしてほしい」
そういえば今朝がたも同じ言葉を言った。おかしなものだ。
「これから出かけるところなのだ」
「ほう、ほう」
老人の嘆息が繰り返される。満足そうな、愉快そうな色。
「ずいぶんと度胸の据わった女じゃて。いやはや、さすが」
今度の台詞はイタリア語だ。
アフロディーテは首をかくん、と横に倒す。
ちょっと困ったように眉を寄せる。
……こうすれば、世の中のたいはんの人間は、かれの意志を優先してくれる――はずだった。
老人の長い白眉があがる。
ほう、と嘆息が一度になった。
もしかしたら、耳が遠いのかもしれない。
「聞こえなかった? わたし、出かけるから、どいてほしい」
「ふむ、残念ながらそうもいかん。誰もいないと思うて来たが、思いもかけぬ収穫じゃ。
 せっかくじゃからついてきてもらうぞ、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんではないのだ。それに、知らない相手についていったら怒られる」
アフロディーテの言葉など聞こえないように、老人の手が伸びた。
かさかさに乾いた、薄茶色の肌。
む、となったアフロディーテは、反射的に老人の手をたたき落とした。
傍から見れば、ぺち、とでも擬音を飾りたくなる平手。
しかし、威力は相当なものだ。
実際、老人の手は盛大に払われ、細い身体が前後に揺れた。
こんな老人相手に手をあげられる神経もさすがだが、ふむ、とひとつ頷いただけで何事もなかったように頷く老人も、
称賛、否、驚愕に値するものだ。
――あんまり手加減しなかったのに。
「ただものでじゃないようじゃの、お嬢ちゃん」
「出かけると言っているのに」
「それは無理な相談じゃ。何しろ、これから人質になってもらうでな」
人質。
アフロディーテは、今度ははっきりと柳眉を寄せた。
「……そのことばは、嫌いだ」
呟く一言。
「それに、ここのひとになら、わたしは人質にはならない。ここのひととわたしは、関係ない」
「ほう、おかしなことを言うものじゃで。ならば、なぜここにおる?」
「ここで待ってろっていわれたから」
口調に漂う茫洋さを裏切って、アフロディーテは目の前の老人に警戒を怠らなかった。
無防備につづっている言葉ひとつひとつ、老人の反応をつぶさに観測する。
不意に、アフロディーテの手のなかでスマートフォンが震え出した。
時間を焦らないのは老人の自信から来るものなのか、あるいは、時間の使い方に寛容なだけなのか。
片手が通話を促してくる。
ん、と小首を傾げながら視線を落とせば、着信先にはタケシの表示。
老人をぼんやりと見守りながら、アフロディーテは短く応答する。
途端に電話口に聞こえたのは、まくしたてるような早口のイタリア語。デスマスクだ。
『ロディ、おまえ、今なにしてる!?』
「お客さんがきた」
『! どんなヤツだよ!?』
「おかしなひと。どいてと言っても、どいてくれないのだ」
電話越しにデスマスクが息を飲む気配。背後に重なるエグゾーストノート。
そして間をおかず、
『今すぐ、全力でぶちのめせ!』
響く声は老人にも届いたろう。
アフロディーテは改めて、老人に視線を向ける。
『ぶっ飛ばしたら、かけ直せ!』
「ん」
わかった、という返事を待たずに通話は切れ、流れるような動作でアフロディーテは左手を閃かせた。
指先、生じる大輪の赤薔薇。
「!?」
老人の目が開く。
亜音速で繰り出された突きを老人が避けたことで、アフロディーテは目を細めた。
花弁が一枚、散る。
それが老人の視界を過る寸前、アフロディーテの左手が、ふたたび、返された。
――ロイヤルデモンローズ。
艶やかな唇が、音にならない言葉を紡ぐ。
細められてなお、大きさが分かる瞳がつめたい光をたたえた。瞬時にしてアフロディーテの意識が切り替わったことを、老人は、見抜いたのだろうか。
空間を埋め尽くす、赤い薔薇の花弁。宙に満ちたむせかえるような香気。
「!? いかん」
呟いた老人は、優雅に宙空を舞う花弁が、凶器と化して襲いかかる寸前、その身を階段へ躍らせた。
第三者が見ればあり得ないことに――花弁は散弾銃の勢いで、次々と壁にのめり込んだ。
自らの武器が生み出す威力には目もくれず、アフロディーテの身体も宙を舞う。
躊躇いもなく老人を追い、先んじて踊り場に着地した老人へと、滑空するように蹴りを見舞う。
老人が身を捻る。
着地と同時、重心が重力に囚われるより早く、アフロディーテは勢いのまま後方に一回転する。
反動、飛び込みざま振う右手の裏拳。
……たしかに、それは、本気ではなかった。
しかし、こと戦闘において、かれの攻撃をここまでかわし、受け止めることのできる人間が早々存在するはずは、なかった。
「――ドーピング?」
「ほ、ほ。似たようなもんじゃ。科学の力は侮れぬよ」
アフロディーテの拳を受け止めた老人が、軽い笑い声をあげる。
美貌に拗ねたような色彩が浮かんだ。間近で見れば、それだけで前非を悔いたくなるような表情だ。
実際、老人の背筋から力が抜けた。
――それをみすみすと見逃すようなアフロディーテではない。
相手がだれであろうと、不意打ちであろうと、「敵」と認識した存在に情けをかける回路をかれは持ち合わせていなかった。
「!」
上体を捻り、生じた勢いに体重を乗せて至近距離で膝蹴りを放つ。
今度こそ、命中――老人の身体が飛んだ。
ところが。
手すりを越え、階下に放り投げられた老人は、壁あるいは床に叩きつけられる代わり、
靴底にクッションでも仕込んでいたかのように見事な着地を見せたのだ。
「危ないところじゃったわい」
「……あなたは、何者だ」
「む――ほう、お嬢ちゃん、そうとうな戦闘訓練を受け取るようじゃな。
 顔つきが別人のようじゃ。いやはや、面白い。これだから長生きはやめられん」
けほけほと軽くむせた老人は、顔の前で手を左右させる。空気に混ざる香気を払いのけようとするように。
袖から覗いた手首が、黒光りするスーツに包まれていたことにアフロディーテは気づく。
――アレが、科学のちから。
「ふむ、毒か。困ったこまった」
フィクションの世界では、無数のセンサーで人体の能力を何倍にも跳ねあげるスーツは定番のアイテムである。
不可視であるはずの空気の微量な変化ですら分析する機能があったとして、なんの不思議はなかった。
――全力で、
ぶちのめせ、と言われた。
踊り場から老人までの距離。縮地は容易い。
次の一手を決した瞬間だった。
「……!?」
気勢をそがれた形で、アフロディーテは顔をあげた。
老人がくるりと身を翻し、一気に玄関口へと駆け出したのだ。
「こういうときは逃げるが勝ちじゃ」
「あ」
「邪魔したの!」
ずるい、と自分を巨大な棚のうえにあげたまま、アフロディーテは呟き、片頬を膨らませる。
その美貌に浮かぶ表情は、すでにいつも通りの、夢見心地な――寝惚けた、ともいう――それ。
追いかけることはできた。
けれど、「ぶっ飛ばしたら」と言われたからには、追いかける必要を感じなかった。
またたく間に外へと消えた老人の背に、黒薔薇を一輪、投げてみたのは腹いせだ。
当たればラッキー、くらいには思ったかもしれない。
もちろん、というか案の定というか、追尾式のはずのそれは誰もいない宙に吸い込まれ、
やがて、アフロディーテが力を抜くと同時に空にかき消える。
ちいさな舌打ち。
豪奢な金髪がひるがえる。
家主が見たら気絶しかねない破壊の痕跡を無視して、
アフロディーテは、すでに老人との戦闘などなかったかのように2階の部屋を目指す。
「とじまり」
えい、と開き放したドアを形ばかり閉める。
再び踵を返したアフロディーテは、ようやく思い出したように、スマートフォンを取り出し、
着信履歴を呼びだしてから、耳にあてた。