The pure and the tainted

14.


午前中、巨大な質量を持つ“落下物”に半壊された下町の居酒屋。
そこに至る小路のそこかしこに黒塗りの車が停まり、必要以上に黄色いテープが立ち入り禁止を掲げていた。
日は傾き始めている。風が心なしか温度をさげた。
戒厳令のさなかでも、下町の住人を完全に制御することはできない。
そこかしこのベランダから無数の目がのぞき、建物の入り口では無言の観察が注がれている。
もし、集った男たちがこの区画では絶大な信頼を勝ち得ているボンゴレの調査班でなければ、
かれらの視線は警戒色を前面に押し出していただろう。
仕方ない。
行政の恩恵にあぶれた連中だ。
そうした野次馬たちの視線にまぎれ、建物の内部、裏庭、非常口――さりげなく移動を繰り返しながら、
デスマスクは角のアパートメントを目指していた。
まるで目立たない飄然とした足取りと、その場に溶け込む気配。決して目立たない容姿ではない。
それなのに、かれは平然と、しかもだれの意識に記憶されることなく、あっさりと古びた建物に吸い込まれた。
ほころびや下水の染みが模様のように浮かび上がる外壁。
住人の過半数が、その日暮らしの老人で構成された建物。
吸い込まれて、数分。かれは、やはり、何気ない顔で建物を出て、往路とは巧妙にルートを変えながら、通りの一角へ、出た。
近辺で最も警戒が薄いルートを、かれは見抜いていたのだ。
かつては商店が軒を連ねていた場所。石造りのアーチをくぐり、日照条件の悪さから年中、乾くことのない石畳を鷹揚と進む。
まるで散歩の風情だ。未だに稼働している古ぼけた電話ボックス。そこから、さらに数メートル。
こんな治安の悪いエリアでも撤去されずに済んでいるATMへたどり着く。
住人たちの活用頻度が高くなければ、銀行側も早々に廃止したいだろうに。
揶揄するように唇を口笛の形にかえる。音はたてない。同時に、ポケットにつっこんでいた右手が、引き抜かれる。指先で1枚のキャッシュカードが無造作に回される。
使いこまれすぎて角のけずれたカードは、バランスを崩すことなく数回転し、淀みのない動作でATMに吸い込まれていった。
中途半端なブロックフィルターがかかるディスプレイを見ながら、暗証番号は、ミスの許されるギリギリ3回で打ち込んだ。
表示された金額に、今度こそ口笛が音をたてた。
「――」
走らせる視線。味気ない数字を確かめるにつれ、口端が嫌な形につり上がった。
質の悪い紙が吐き出される。
終了を促す画面。突き返されたカードを見もせずに受け取り、紙は横からさらうようにちぎった。
「便所の紙かっての」
切れのわるい紙に悪態をひとつ。
もう一度、確認の視線を紙面を走らせながら、かれはすぐさま踵を返した。
その、瞬間。
「なにしてんの」
「うびゃ!?」
掛けられた声に、思わず声をあげてデスマスクが飛び上がる。
とっさにカードと紙幣をポケットにしまう反射神経は並ではない。だが。
「な、それ、なに隠した?」
「や、何も隠してねえよ?」
「ウソは感心しねーなあ」
顔の高さで両手を掲げて、ゆっくり背後を振り返る。
表情は、考えた挙句微妙な笑みに変えた。
声の主――山本が、それをどんな印象として受けるか、計算したつもりだ。
「さっそく見回りかい? ご苦労さんなこって」
軽口で言うが、内心には冷や汗を隠しきれない。
……たしかに、かれは“仲間内”では弱いと称される部類に入る。
それでも、一歩外に出れば常人以上の素質を備えているのだ。
ここまで気づかれることなく、背後に接近を許すなど、どれだけ油断していたとしてもあり得ない失態だった。
――くっそ、あなどれねえな、ボンゴレ。
距離は数メートルも離れていない。山本が背に負う日本刀を抜けば、直撃をくらう範囲だ。
注意深く、けれど道化の振舞いを忘れずに、デスマスクは山本を見た。
敵意は感じられない。
それでも気を抜けないだけの迫力を、山本は持っていた。
少年のような無邪気な眼差しと、とぼけた口ぶりで山本が小首を傾げる。
雲を衝くような大男がその仕草をしても違和感のないあたり、やはり、かれは得体が知れない。
「一度、本部に顔出して、ツナと話して、んでもって見回りってーか。なんかなんとなく、カンがしたのな」
「カン?」
「オレ、こっちに来たほうがいーんじゃねーかって」
にこり、と、こともなげに言う。
ゆっくりと両手を下げるデスマスクは、それでも、山本のリーチに捉えられていることを意識した。
「で、おまえ、なにしてたの」
「べつにたいしたことじゃねぇぜ?」
「他人のカードでATMいじんのは、たいしたことなんじゃねーの?」
「……」
「な?」
いったいどこから見ていたのだろうか。
隠行は完璧だったはずだ。
改めて山本の全身に観察眼を注ぎながら、デスマスクは口を開いた。
「人が悪いな、タケシ。気づいてたんなら、声、かけてくれてもいいじゃねぇか」
「でも、こそこそしてっから、声かけづらかったしさ」
「見張ってた、ってか?」
「や、そういうわけじゃねーけど。なんてーか……大人しくしてんのも妙じゃね?」
つまりアパートメントで別れるときから、不信感を抱いていたと言うのだろう。
下手な小細工で言いつくろうのは逆効果だ。
そう瞬時に判断したデスマスクは、肩の力を抜いて情けなく眉を八の字に寄せた。
「おい、端から疑ってたってのか? ずいぶんつれねぇなあ」
「疑ってたってか。ほら、そこまで親しくなくね? オレら」
「……仰るとおりで」
溜息が洩れた。
その様子で、何がしかの思考に結着をつけたのだろう、山本が、頭の後ろに両手を組む。
悪びれず、へへ、と笑うあたり、器が大きいのか、なんなのか。
長身を折るようにして、山本がこちらを覗きこんでくる。
「で、なにしてたの」
「――」
言い淀む。
乾いた唇を嘗める。
口を開きかける。
――だが、会話の継続は諦めるしかなかった。デスマスクにしては幸いなことに、山本にしてはタイミング悪く。
「!」
とっさにふたりはその場を左右に飛びのいた。
直後、今しがたまでふたりがいた石畳の中央が、破裂音とともにえぐり取られたのだ。
「狙撃!?」
粉砕された石畳の慣れの果てが宙を舞う。
「デス!」
山本が呼ぶ。
応える代わりに、ふたりは電話ボックスの影に身を伏せた。
「どっから撃たれた!?」
「わからねぇよ!」
短く交わす言葉。
次の瞬間、ふたりは再び空を裂く殺人弾の気配を察知する。タイムラグはない。
電話ボックスの薄汚れた硝子が、一撃の弾丸で砕け落ちる。
直撃した電話に火花。全面のガラスがはかなく地上に舞い積もる。
策敵の視線を周囲に走らせる――しかし、この位置を狙えたどの角度にも、襲撃者の気配は見当たらない。
「ちくしょうめ!」
舌打ちしてデスマスクが叫ぶ。
「50口径弾なんざ、対人用に使うんじゃねぇよ!」
意識を集中させれば、狙撃手の場所を探れる。しかし、そんな隙を見せれば、またたく間に“生身”のかれの四肢は霧散するに違いない。
意を決したデスマスクは、注いだ硝子を振りはらいながら、
「タケシ、空飛べるか!?」
「や、え? いまは無理」
「じゃ、舌噛むんじゃねえぞ!」
――訊く方も訊くほうなら、即座に答えた方も応えた方だ。
光学スコープ越しにのぞく狙撃手が、何を思ったかはわからない。
デスマスクが転げるような態勢で前に踏みだした。
その片手に、山本のジャケットを掴む。
そして。
「――!」
低姿勢のまま踏みだした一歩は、あらゆる物理法則を無視した軌道に進んだ。
「な、」
重力に抗う自分の体に、山本が思わず目を剥く。
デスマスクが駆けたのは、向かいの建物の壁だったのだ。
垂直方向、軌道を斜めに描くのは狙撃を避けるためだ。
「おい!?」
「黙ってろ!」
不格好な態勢。そのくせ、上昇スピードは地上を駆けるに遜色ない。軌道に、さらに2発。
威力をうかがわせる破壊音に壁がはがれおちる。
地上8階、高さ約30メートル。
またたく間にかけのぼったその高さにたどり着くや否、山本の身体は放り出された。
「おっと、」
着地して、同時に背負った刀の柄に手をかける。
解体工事の費用が捻出されず、廃墟となったまま放置された雑居ビルは、エリア内で最も高い建物だった。
区画を知悉したデスマスクならではの選択だ。当の本人は両手と両膝をついて、息切れを隠せずにいる。
――こっからなら、弾が飛んでくる位置、わかるな。
50口径のスナイパーライフルは、ものによって有効射程は1.5〜2キロ。
内心で呟いた山本は、意識を集中して策敵範囲を広めていく。
実際の視力よりも更にクリアに、遠くまで広がる視界。
――来る!?
どこから、などと考える暇はなかった。
地面を蹴る。視界の隅でデスマスクも動いた。
「!!」
2キロ圏内に、ここを“上空から”狙撃できる場所などないはずだ。
斜め上方から襲いかかってきた弾丸は、確実に屋上のコンクリートをぶち抜き、無残な破壊痕を刻んだ。
浮かんだのは、あり得ない想定。
「跳弾させてんのか!?」
まさか、大口径の機関銃弾を、どうやって!?
みずからは屋上の柵に背を寄せ、デスマスクがひび割れた給水塔の影に身を寄せる様を一瞥する。
科学の粋を凝らして、武器は日々進歩している。
実際、かれらマフィアの使用する兵器も、現代科学の観点から見れば充分にオーパーツ的な代物だ。
――くっそ、どーすっかな。
うかつに動けば被弾する。そうでなくとも、この近辺の住人に被害が出ないとは限らない。
なんとかしねーと、とひとりごちた言葉に、答えが返る。
――狙撃手の場所、探してやっから注意しとけ!
「ん?」
――ちっと待ってろや!
それは明らかに頭の中に響いた声。
給水塔の影から、届くはずのない声で言ったデスマスクにもう一度視線を走らせる。
空気が波打ったような感覚がしたのは、次の瞬間だった。