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The pure and the tainted
5.
それに対応できたのは、長年鍛え上げた条件反射のおかげだった。
重力に忠実に落ちて来た重量のある何か。
黒い金属の塊――強いて言えば、棺だろうか。
『ごくでら!?』
「――かけなおす。ちょっと待ってろ」
石畳にのめり込んだそれが、円形に走らせた亀裂。
衝撃に足もとを取られる前に飛びのいた獄寺は、悲鳴をあげた通行人たちに「隠れろ!」と一声を飛ばして態勢を立て直す。
ミラノの高級街区とはいえ、かつてはマフィアの抗争の舞台にもなった土地だ。
ひとびとは真っ先に屋内へと退避し、またたく間に、そこは戦場の様相を呈する。
一方的に切った電話をコートのポケットに仕舞う。
抜きだした手には、ダイナマイトの代用に携帯しているPPK――こんな小口径の銃が役に立つかどうかは、
非常にあやしいところではあった。
地上に突き立ち、青空に黒光りするそれは、明らかに、重厚な金属。
―――せめて匣でも持ってくりゃ良かった…!
大気中に押し寄せてくるどす黒いプレッシャーを感じながら、舌を打つ。
どう冷静に見積もっても、目の前の物体にPPKごときが効果を持つとは思えない。
この圧迫感が友好的なものであったとしたら話はべつだが、残念ながら、万が一にも可能性はゼロだった。
踏みしめた足もとが、不自然な振動を伝えてきた。
発信源は直ぐにわかる。目の前の、棺でしかあり得ない。
どこかで金属製の軋みが聞こえる。
微かな、これは……モーター音、だろうか。
だが、すぐさまギギ、ギギ、と集中を遮る耳障りな音が響き、目の前の棺が、今まさに蓋を開けようともがき始めた。
細い隙間から石畳へと漏れだしたものは、目に見える冷気。
鉛。分厚い金属。重々しい擦過音。
意識上ではあくまでもスローに、蓋が、ずれる。
棺以上に鈍い光を放つ鋭利な何かが、棺の内側からのぞく。
蓋に食い込んだそれは、目の前を遮る障害物を、力づくで排除しようとしていた。
これほど邪悪な気配を発するUMAはいない、などと考えられる余裕は直ぐに失せた。
――やべぇ……!
足が縫いとめられたと気づくころには、遅い。
辛うじて引き金を引けたのは、避けた以上に条件反射だった。
「!」
距離、約数メートル。PPKとはいえ、的確な射撃、だったはずのそれ。
甲高い音とともに、弾丸が棺の隙間からはじかれ、予想通り効果がなかったことを知る。
「獄寺さん!!」
――どこから名を呼ばれたのか、とっさに把握することは出来なかった。
一瞬の出来事だ。
誰かの腕が獄寺の腰に巻き付き、身体が横ざまにさらわれる。
入れ替わるように、疾風をまとう人影が視界にクロスした。
蓋が轟音をたてて剥がれ落ちる。踏み出した何か。獄寺の知識を持っても、それが発した咆哮を正しく形容することはできない。
移動時のスピードが嘘のように、そっと背中が壁を感じた。
「大丈夫かい、別嬪さん?」
覗きこんでくる赤い双眸。独特の片笑いが鼻につく。
「デス、」
「おうよ。――ちぃと待ってな。すぐに片、つける」
「何が」
「シュラが」
そうではない、と反論する間も惜しく、獄寺は、目の前の盾となった男の身体から顔をのぞかせる。
地響きがしたのは、直後。
空となった棺が地面に倒れ、崩れた石畳をさらに破壊した。
そして、たちこめる土埃のなか。
シュラの左手が受け止めていたのは、巨大な鈎爪だった。
「!?」
息をのむ。
その生物につける名前を知らないことが口惜しい。
向きだした眼球。避けた口。
鈎爪同様の鋭利な牙が、薄汚い液体を滴らせている――数分前に山本が遭遇したそれに酷似した物体であることは、
このときの獄寺には、まだ知り得ようはなかった。
――化け物……!?
二本足で立つ生物は、明らかに、人間と同じ機能を備えた生き物でありながら、あまりの異形さが滑稽にさえ思えてくる。
「!」
半ば茫然と、獄寺は目を見開いた。
「おい、あぶねえって」
発せられる警告には、さほどの危機感はない。
幼馴染に対して絶対の信頼があるのだろう。
事実、素手で化け物の攻撃を捕えたまま、シュラの背は力をみなぎらせた。
「!」
――押し返した!
後方に沈み込んだ異形の踵が、床石にのめり込んだ。
同時に振りかぶられるもう一方の手。
鈎爪が宙を切り裂く。獄寺の視力では、もはや動きは追えない。
それでも、紙一重もかすらせない。シュラはわずかに身を逸らせただけに見えたというのに。
――ありえねぇ。なんだこいつ!?
驚愕は、化け物だけでなく、見知った青年にも適用されていた。
カウントするなら、まさに呼吸の間だったろう。
シュラが踏み込む――恐怖など微塵もなく。
左手は微動だにしない。
化け物が返す手。鈎爪が閃く。そこにあわせた完璧なまでのタイミングで、振り下ろされたのは、手刀だ。
ぐがああああ、と化け物が悲鳴をあげながらのけ反った。
バランスがとれず、後背にたたらを踏む。
ごと、と重たい音をたてて、地面に落下したのは化け物の両手。
いつ、どうやったのか獄寺には分からなかった。
濁った血液を両手首からまき散らしたそれが態勢を立て直す寸前。
「――とどめだ」
やけに冷静にデスマスクが呟いた。
さらに一歩、シュラが懐へと踏み込んだ。
「!!!」
頭上から地面へ――美しいまでの一直線、手刀が軌道を描く。
縦に割けた化け物の体が、ゆっくりと、左右それぞれに倒れていく。
体勢を少しも崩さず後方へと飛び退いたシュラは、返り血ひとつ浴びていない。
化け物の傷口から白煙があがり始め――ほぼ同時に、獄寺の耳は、良く知った音を聞いた。
複数の歯車が噛み合う音。ディファレンス・エンジンのようだ。
ごく微かなそれらは、棺の内部で反響し、こだましている。そしてひときわ強く打ち付ける、違う拍子の音。
アナログ時計の秒針と同じもの。
「……時限爆弾!?」
「!?」
獄寺の声に、ふたりが反応した。
「デス!」
「わーってるよっ」
低姿勢から棺に向けて、デスマスクが数歩で駆け込む。
代わって、獄寺を守る位置についたシュラが、半身を引いて備えた。
――どうする気だ!?
言葉を紡ぐ時間は間に合わない。
すべての出来事が、思考の速度でしか対応できないのだ。
デスマスクの片手が棺に触れた。
次の一瞬で、棺と男の姿が掻き消え、我を疑って繰り返した瞬きの後には、
亀裂のただなかで、デスマスクが膝をついて項垂れていた。
事象にすれば、たったそれだけのことだった。
「……ちっくしょ、冥界に行くのなんざ、久しぶり過ぎるわ」
「大丈夫か」
「問題ねえよ。黄泉の穴に落としてやった。で、ボン」
おどけた仕草で片手を開く。
さも疲れたと言わんばかりの態度でデスマスクが立ち上がると、シュラは首肯をひとつ。
こちらを振り返り、手を差し伸ばした。
「立てますか」
「……ああ」
――ただ者じゃねえとは思ってたが。
慎重に、それでも手を借りて立ち上がった獄寺は、改めて、目の前のふたりを交互に見やる。
道路と、周囲の建物にまで及んでいた破壊の痕跡。
出て来た言葉は、オリジナリティのひとつもない心からの疑問だった。
「おまえら……――何者なんだ」
思い返してセンスのなさを嘆きかねないその言葉に、シュラとデスマスクが、困った様子で肩をすくめた。
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