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The pure and the tainted
1.
乾燥した空気に寒気が上乗せされている。
この時期のミラノの朝は本当に寒い。
またがったムルティストラーダのエンジンを切ると、それまで熱を発していた2気筒はまたたく間に沈黙し、全身に寒さが伝わる。
「うわ、さみぃーっ」
ぶる、と大きく身を震わせながら、山本はいそいそとバイクから離れる。
そろそろコートが恋しい季節だ。ジャケット1枚ではもう限界かもしれない。
去年、獄寺が買ってくれたニール・バレットだかなんだかのモッズコートを漠然と思い浮かべる。
今年は今年の型を買え、と言われそうだが、毎シーズン、クローゼットの中身を替えていたらキリがないと山本は思っている。
もっとも、あれは獄寺のストレス発散のようなものだ。だから、山本はそれを止めるつもりもないし、反対するつもりもない。
どれほど山本が愛を囁いても、甘い現実にだけ浸ることのできない獄寺を縛りつけたいと思ったこともあったが、それは遠い昔のことだ。
獄寺が、獄寺らしく――本人が思い込んでいる自画像も含めて――振舞える日常、世界にこそ、自分は住みたいと思う。
革靴の底からしみ込む石畳の冷気を踏みしだいて、山本は肩をすくめる。
かれらが住む街区とは様相の一変した下町。入り組んだ迷路のような狭く古びた石畳の小路。
この町で暮らすひとびとの生活を遍く保護することが、ボンゴレの掲げたスローガンのひとつ。
看板企業の手伝いには毛ほども役立たない山本にとっては、こうした地道な地回りが最たる職責である。
おかげで、山本ほどミラノの町を隅々まで知り尽くした日本人は、かつて存在しないだろうほど、
地図にさえ載らない小路のひとつひとつまで身体に叩き込まれている。
通い慣れた道に迷いはない。
朝の遅い下町が、こんな時間に静まり返っているのも、わかっていたことだ。
違和感を覚えたのは何故だろう。
一度、立ち止った山本は、首を捻って考える。
答えはすぐに分かった――においだ。
この時期の、こんな場所にはまったくもって相応しくない、甘い花の芳香が、あたり一面に満ちている。
人工的な香りではない。馥郁とした、自然の花の香気。
園芸を趣味にしたリタイア組も多く住んでいるが、これは、鉢植えのひとつやふたつで醸されるものではない。
思わず山本は目線を眇める。香りの出どころを探る。
不可視のはずの香気の道は、不規則に伸びる路地の先へとかれを導く。
「……あり」
そこが目的の場所であることに気づいた山本は、拍子抜けたように頭を掻いた。
行きつけたエノテーカの、ちょうど裏庭だろうか。
腕のいい手配師が主人として構える居酒屋は、拾い上げることの難しい下町に転がる情報を、
玉石混交ながら提供してくれるのだ。
古くからこの場所にある煉瓦造りの2階建て。上階の住居部分はカーテンに閉ざされている。
午前中に活動しているはずのない宵っ張りの店だから当り前といえば当たり前だが、
なぜ、その店の裏庭に、こんな花が咲き誇っているのか。
背の低いアーチを身体を縮めてくぐりぬけた瞬間、山本は瞬いた。
花の名前など、ほとんど知らない。そんなかれにも、いま、眼前に咲き誇る花の名前はわかる。
薔薇だ。濃い紅色の、大ぶりな薔薇の花。
山本の語彙では、そこを「優美」だとか「華麗」だと表現することはできないが、まさに、そうした華美な装飾語にふさわしいほどの薔薇の花々が、裏庭いっぱいにところ狭しと咲いていた。
四方に迫る建物の間から差し込む朝の光を受け、花々は、神々しいまでに花弁を広げている。
「こんな花、植えてあったっけ?」
自問しつつ奥へと向かう。
小じんまりした居酒屋とはいえ、金回りは悪くない。買い取って植樹したのだろうか。
そんなことを考えながら、軒先に張り出したバルコニーの戸を押す。
鍵のついていない侵入口に、不用心じゃね、と言ったのはずいぶん前だ。
けれど、この店の主は人の悪そうな笑みを浮かべて、
「2階にゃ最強の門番がいんのよ。泥棒のひとりやふたり、入ったところで問題ねえわ」
と意味深に答えた。
同居しているはずの幼馴染と恋人と――そういえば、幼馴染のほうは、
獄寺が国内でオークションを開催するたびに雇うガードマンだったはずだ(それも山本がここの主経由で紹介した)。
傭兵あがりらしいと言っていた。トラップやらその類でも仕掛けているのかもしれない。
セコムみてーなもんか、と思って、あのときは適当に聞き流した。
そんな主の名前を呼び掛けながら、
「ちわーす。邪魔するぜー」
静まり返った、薄暗い店内を見回す。
意外にこぎれいに整頓されたカウンターの奥。住居スペースに続く階段に向けて、もういちど繰り返そうとしたとき。
ぎし、ぎし、と老朽化した階段が鳴った。
ほどなくして現れるのは人の気配。
風向きが変わったわけでもないのに、薔薇の香りが驚くほど強くなった、ような気がする。
「ん……だれ? 借金取り?」
半ば寝惚けた様なおぼつかない口調。
えらい美人のスヴェンスカの恋人がいる――そう聞いていなければ、山本は、その場で何の対応も出来なかったかもしれない。
階段を下りてくるほっそりとした人影。
どんな距離をおいていても、その美貌に気づかないはずはない。
ゆるく波打つ色素の薄い豪奢な髪。
陶磁器のような透き通る肌。
暗がりのなかでも、存在自体が輝きを放っている、といえばいいのだろうか。
獄寺の美貌とも、雲雀の端正さとも違う。
人類という域を超えている。そうとしか思えなかった。
濃く長い睫毛が、音を立てて瞬く。
「……お客さんなら、夕方以降に出なおしてほしい」
ふわあ、と無防備なあくびをしながらこちらを振り向く姿に、とっさに返す言葉が出てこない。
しばし立ちつくして、それでも、山本がなんとか口を開けたのは、小首を傾げた美貌の主が、
こしこしと目元をこすってくれたからだ。
視線の呪縛から解放された、といってもいい。
「あ、えっと……悪ぃ、オレ、山本ってんだけど」
「ヤマモト?」
「その――あー……あのさ、朝早くに、悪ぃんだけどさ」
「――気づかなかった。もうあさ?」
「あ、うん。えっと」
「わたし、いつ寝た?」
「や、それはちっとわかんねーけど」
天上の美貌がうつらうつらと首肯する。
細い指先が口元に触れ、もう一度、あくび。
手の甲まで覆う長い袖は、隠された肌を想像させて、いっそ、官能的ですらある。いい趣味だ。
さすが生粋のイタリアーノ。妙なところで山本はここの主に感嘆を覚えた。
思わず生唾を飲み込みかけて、山本は慌てて視線を逸らせる。
能天気な笑顔をつくって頭を掻きながら、
「借金取りでもねーし、酒飲みに来たんでもねーんだけど、あの、旦那、いる?」
「……どっち。デス? シュラ?」
旦那と訊いても名前がふたつ出てくる。
その関係が冗談ではないのだと、予備知識がなければ多いに混乱したところだ。
獄寺が聞いたら目を丸くするどころか、卒倒してもおかしくない。
目の前の麗人が、反対側に首を傾げた。
答えを待っているのだと我に返って、山本は両手を広げる。
「デスに用があんだけど。まだ寝てるか?」
「今日はおきてる」
「まじで? 珍しーのな、こんな早く」
「バツゲームで、かいだし。シュラと」
美貌に圧倒されていたが、続いた会話のいくつかで、山本は悟る。
もしかして、まだ、この美人は寝惚けているのではないだろうか、と。
罪悪感とは程遠い場所にある山本の精神が、なぜかくじけそうになった。
「起こしちまったか? 悪い、留守なら出直すな。
また後で来っから、もし覚えてたらオレが来たって伝えてくれねーか」
「ん。おぼえてたら――でも、起きたのは、君のせいではない、と思う」
「へ?」
「わたしの薔薇が咲いた。たぶん、危険だ」
「それって、」
「……避けたほうがいい」
翻弄され放す会話。
だが、美人の言葉に促されるでもなく感じ取った気配は、山本の本能を突き動かした。
上、と胸中で確認した次の瞬間、山本は店の奥へと身を転がせた。
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